第1回宇都宮のまちづくりと住宅地開発
- Kikoh Machidukuri
- 2020年8月21日
- 読了時間: 31分
更新日:2021年9月9日
トヨタウッドユーホーム株式会社
中津正修会長
山田 私は、今回は宮再発見委員会の副委員長という立場でお話をお聞かせいただくことになっています。
昨年から私も経営の第一線を引きまして、今は創業した会社の監査役という立場でおります。その前は松下電器に勤めていましたが、当時、松下幸之助が平出工業団地にする時に平出工業団地に県の職員の方に案内してもらって、長靴を履いて歩いて回り「ここにする?」と言って決めたということを、県のOBの方に聞いたことがありました。
あるいは本田宗一郎さんが契約の時に市役所にバイクできたとか、自家用飛行機に乗ってきたとか、そういう隠れた秘話が、実はあちこちにあるだろうと思ったのが、この事業のきっかけでした。
そういう、知っている人は、知っているけれども知らない人は誰も知らないよね、というお話がいろいろあると思います。今だから聞ける、今でなくてはいけないようなお話を、宮再発見委員会で集めていったらどうか、というのが今年度以降の取り組みの、骨子になっています。
今回は1回目ということで、全体的なところを、中津会長にお話しいただければ、今後進めていく上でいいんじゃないかというので、お願いしました。よろしくお願いします。
■少年時代の思い出
1 空襲の跡
中津 私は、生まれは鹿沼市なんです。18歳までは鹿沼に暮らしていて、その後大学に進学し4年間、卒業後に就職して4年間半、千葉でトータル8年半くらい過ごしました。宇都宮市に戻ってきたのが、昭和50年(1975年)です。
最初に子どものころの話をさせていただくと、私の父親の会社が今の県庁前通り、今で言えばホテル・ザ・セントレのあたりにあり、私は子供のころいつもそのあたりで遊んでいました。
当時は鹿沼市と宇都宮市を連絡する交通機関というのは、バスか、蒸気機関車(※旧国鉄の日光線。日光線に気動車が走るのは1950年から)でした。蒸気機関車の路線は今の富士重工の北側を通るんですが、ある時窓から外を見ると、富士重工の工場の屋根とか壁に、穴がボコボコといっぱい空いているんですよ。あれはなんだろうと疑問に思っていましたら、母が「アメリカの艦載機が機銃掃射をした跡だよ」と教えてくれました。母によれば、パイロットの顔まで見えるくらい、低空まで降りてきて攻撃して来たそうです。そんなふうに、戦争の跡がまだ残っていました。終戦からもう10年くらい経っていましたが、いまだにスレートの屋根に穴が開いた状態で、直してなかったのです。
2 軍道の桜並木
宇都宮市には、軍道が鶴田の駅の方からずっと北進をしてきまして、今の桜通りを通っていました。多分あれは、いまの作新とかこの辺に陸軍第14師団があって、軍隊がそこを行軍していたのでしょう(※宇都宮市には陸軍第14師団が置かれており、現在の作新学院など数カ所に分散して連隊や練兵場などがあった)。その軍道沿いにすばらしい桜並木があって、そこは春になると桜を見る最高の場所の一つでした。今で言えば、宇都宮大学の工学部の西の通りのような光景ですね。桜の木と木の間には、いろんな出店がでていました。私もよく、物を買っていただきました。ですから、桜通りの桜並木は、すごく印象に残っています。
八幡山公園も当時からあり、公園や遊園地のようになっていました。現在とは少し印象が違いましたが、広くて楽しいところでしたね。
桜通りといえば、ずいぶん後になりますが、桜並木を伐採してジャスコができた時(※1974年に桜3丁目に開店)のことも、すごく覚えています。桜交差点の南側の道路の東側です。ジャスコのような大きな商業施設が、県外から進出して来たということで、強く印象に残っています。
3 傷痍軍人の姿と軍都・宇都宮市
子どものころの思い出で、今でもはっきり覚えていることの一つは、宇都宮二荒山神社の鳥居の前で見た傷痍軍人の姿です。白い服に軍帽を被った人たちが、アコーディオンを弾いて歌を——多分、軍歌だったと思います——歌っていました。通りかかった大人たちは、その人たちの足元に置かれた箱に、なにがしかのお金を入れていきました。
親に「この人たちは何なの」と聞いて、傷痍軍人だと教えてもらいました。戦争で怪我をして四肢が不自由になってしまった軍人さんが、人が集まる日曜日などに神社の前でそのようにして歌を歌っていたのでした。
桜通りの桜並木、富士重工の空襲跡、そして傷痍軍人。これらはみんな、戦争の跡ですよ。戦争中、宇都宮市と鹿沼市はほとんど完全に爆撃されました。宇都宮市は師団と、中島飛行機など軍需工場が目標です。中島飛行機は軍用機を生産していました。鹿沼市は帝国繊維が主な爆撃目標でした。鹿沼の農家では麻を作っており、帝国繊維はその麻でロープを作っていたんです。そのロープは軍艦のためのロープだったということで、爆撃されました。
後に私どもが開発をした「陽東桜が丘」は、以前はシンガー日鋼という工場の跡地でした。この会社は、戦前戦中は軍需工場でした(※1943年に日本製鋼所宇都宮製作所として発足、軍需工場として稼働。戦後ミシン製造部門となり、1949年にパインミシン製造として独立。1971年にシンガー日鋼に改組。2000年に会社解散)。そこにも桜並木がありました。
陽東桜が丘の南に宇都宮大学工学部があるんですが、工学部の敷地内のラグビーの練習場やコンビニのあたりは、実はシンガー日鋼さんが作っていた武器の射撃場だったということを聞いたことがあります。
こうしてみると、現代でも宇都宮市が軍都だったことを知るよすがが、まだまだ残っているんですね。戦前の宇都宮市は商業都市であるとともに、武器弾薬を造っていた都市でもあり、軍人さんもたくさんおられたのでした。
私は昭和23年生まれです。その2年後に朝鮮戦争が始まりました。朝鮮戦争をきっかけに日本の二次産業は復活をするんですけれども、地方都市の住宅の復興というのはそれより遅れて、私の子どものころにはまだいわゆる「掘っ立て小屋」が、あちこちに建っていました。
4 食事や盛り場
昔の家庭では、外食ということはほとんどしませんでした。そもそも戦後すぐはお米が配給だったものですから。私の兄弟が男の子ばかり多くて、配給ではとても足りないので、闇米を売りに来る人から買ったりしていました。当時、野菜は引き売り(物売り)でした。納豆や豆腐も、朝、売りに来ていました。魚屋さんでは、ガラスショーケースの中に入っている魚は本当に少なくて、それ以外は塩漬けになったものか粕漬け、後は干物でした。そういうのは覚えていますね。私が子どものころは昭和20年代から30年代にかけてですが、当時はそんな街並みで、道路を走る車も、ほとんどありませんでした。
そんな時に初めて、外食を経験したんですよ。それがマスキンさんで、確か2階に上がっていったような記憶があるんですけれども。
ところが、マスキンさんに行っても、子どもですから書いてあるメニューを読んでも、それがどういう料理なのか、分からない(笑)。それで「支那そば」と言って「せっかくだから、ふだんとは違うものを食べなさい」と親に怒られたりしました。日本そばと支那そばは、私が子どものころから出前がありましたから、ふだんから食べていたんです。
そのマスキンと大通りをはさんで、上野百貨店がありました。当時ですから上野百貨店も5階くらいでしたかね。こう見上げるとね、子どもながらに、こんな大きい建物があるんだと感じたものです。屋上がちょっとした遊園地になっていて。休みの日にはそこに、年に数える程ですけど、連れていってもらいました。
今のバンバ通りには、花屋敷とかスカラ座という映画館が並んでいました。当時は日本映画がすごく流行っていましたね。大映とか東映とか(※1950年代は、日本映画の黄金時代のひとつ)。
街の中の風景は、今とは比べ物にならないくらいに粗末な家が多かったと思います。ただ、大通り沿いは栄えていて――大通りの幅員は30メートルしかないのですが、子どものころはすごく大きく感じたのを覚えていますね。
その後、オリオン通りができて、そこで七夕祭りがおこなわれました。今は防災の関係などで、なかなか派手にできないこともあるのですが、私が子どもの時は、それこそ動く七夕の仕掛けっていうんですかね。そういうのもあそこでやられていました。
■宇都宮市の発展を支えて
1 昭和50(1975)年の宇都宮市
私は大学卒業後に千葉の会社で働いていましたが、昭和50年に宇都宮市に戻ってきて会社を設立しました(※宇都宮産業開発株式会社の設立は昭和44年。昭和50年に建築部が設立され、木造住宅の建築を開始)。27歳でした。
昭和50年に戻ってきた時の印象は、国鉄宇都宮駅(現・JR宇都宮駅)の西側は完全に復興していたんですが、東側がまだまだでした。旧国鉄の社宅がたくさんありました。
私が宇都宮市に戻って来て初めて住んだのが越戸でが、そこでは幅が1.8メートルくらいの道路の両側に、そういう社宅が建っていて、真っ黒に日焼けしたおじさんたちが将棋を指したり、酒を飲んだりしているんです。今でも「怖かった」というイメージが残っています。
その後、東口の再開発の話が出てきました。未整理に建っていた住宅や入り組んだ田畑が、どんどんきれいになりました。そこが私には、希望に満ちた土地のように感じられました。「ああ、これから宇都宮が変わるんだろうな」と感慨を覚えたものでした。
宇都宮市の街の変貌の中で、一番大きく変わったと思ったのが、東口でした。当時、成田空港の建設計画が進んでいました。そのために成田にあった御料牧場を栃木県高根沢町に移転したのです(※昭和44年8月19日)。その影響が大きかったのかなと思います。
それから、当時は東側に大きな工場を誘致しようという動きがあって。それでかなり、宇都宮工業団地(平出工業団地、1962年分譲開始)や宇都宮清原工業団地(1974年分譲開始)、芳賀工業団地などが開けました。テクノポリス(※昭和58年に国がテクノポリス法により制度化)ということで、開発が進み始めました。
2 団塊の世代に向けた住宅提供
私どもの会社では昭和50年に、本格的に住宅を建て始めました。翌年の昭和51年くらいに急成長するんですけれども、初めて私が手がけた建売住宅というのが、平出工業団地の鬼怒川沿いに、クボタなどの工場がありまして、その裏側に分譲地を作ったのが初めての仕事でした。
どのくらいの広さの街を作ったかというと、土地は35坪から40坪。建物が17坪から20ぐらい。それで650万円から800万円くらいの販売価格でした。
日本では住宅の復興が遅れていて、当時でも2部屋くらいのところに親子で5人も6人も住んでいました。私は昭和23年生まれ、いわゆる団塊の世代です。昭和22〜24年の辺りに生まれた人たちが団塊の世代なのですが、ここに属する人たちは昭和50年のころに27、8歳になっているわけです。そうすると、結婚しなきゃならない。でも、結婚しても住むところがない。それが、住宅建築がどんどん行われた理由の一つでした。
当時、平屋の貸家はたくさんありましたが、私どもでは団塊の世代の人たちに戸建住宅を提供しました。その建売が飛ぶように売れたのです。それが、私の会社が初めて、街に対しての付加価値を提供するビジネスモデルのきっかけになりました。
そのころに宅地開発をして作った街はたくさんあるんですけど、今見ると本当にどれも小規模で、隔世の感があります。
当時は既に、熊谷商事や日栄住宅資材(現在のナイス)、北王地所など、建売住宅を手がける会社もどんどん増えていました。栃木県内の同業者だけでも35、6社あり、また時期的に住宅金融公庫が銀行よりも使いやすくなった(1970年代)ことで、いわゆる住宅ブームが起きたのです。
■まちづくりの思い出と宇都宮市の姿
1 戸祭グリーンヒル
うちの会社が大きく変わったきっかけは、戸祭山の「グリーンヒル」の開発でした。
場所は、仏舎利塔の裏の方です。あそこは風致地区(※都市内外の自然美を維持保存することを目的として、1918年に創設された制度。地区内では、建築や樹木の伐採などに一定の制限が加えられる)なんですが、そこに金網で囲まれた大きな土地がありましてね、それが谷のようになっていました。その上、そこに「マムシ注意」などの看板があるのです。金網が破れているので、そこから中へ入っていくと、ビニールシートで作ったテントのようなものがあり、中に漫画本が置いてある。そんな光景を今でもよく覚えています。ホームレスなどの人たちが住み着いていたのです。そこを開発することになりました。
雑木林ですから、まずそれを伐採しました。その際に反対される方も、大勢おられました。その時、彼らにこんなふうに申し上げました。
「この雑木林は光合成もしないし、経済性もありません。このままにしておいて、万が一誰も管理していなかったら、山火事になった時大変なことになります。私どもが開発する時に、緑地帯を40%くらい残さなければならないと決められています。だから、周辺を緑地帯にし、それぞれの家にも植林をすれば、緑は人間が管理するのですから、逆に永遠に残るのです」
そんな話をさせていただいて、皆さんにご納得いただき、無事に開発ができました。
その際に、競輪場通りからまっすぐ上がって行って、向こうの長岡街道まで道路を抜きました。そうすることによって、いつも渋滞している日光街道の五叉路(松原3丁目交差点・戸祭大橋歩道橋)を通らなくても行けるようにしました。
2 東口の変貌と都市のあり方
工業団地の整備が進むと、街の中にあった工場がそちらに移っていきます。そういった跡地を住宅地に作り変えていきました。
住宅地を作るためには最低4メートルの道路が必要でしたし、上下水道を完備させなければいけない。我々の街づくりは、同時に社会のインフラ整備でもありました。ただ、ほとんどが駅の西側で、東側はまだまだ遅れていました。
ところがある時、栃木県の住宅課へ行った時に「ホンダさんが和光市からこちらに移動してくる。最低でも150から200戸の住宅を作れないか」という話をされました。ということは、2000人くらい移動するということです。うちの会社1社だけではとてもそんなに供給できませんが、できるだけ協力させていただきますということを申し上げました。
先ほども言いましたが、駅の東口は区画整理も進み、とてつもない夢のある場所になっていましたから、これから素晴らしい県都・宇都宮市の玄関口ができるんだと期待をしておりました。
ところがそこにホンダが移転してくることになり、行政としては止むに止まれず、柳田街道の沿線の地主さんにマンションを建ててもらったのです。そこで、高級な高層マンションが次々と建ちました。あの時は「どうしてこんなことするんだろう」と驚いたものでした。柳田街道は、将来は東口のメイン通りになるところでした。まちづくりの要となる通りに、マンションを建てさせていったんですから。
3 街に必要な要素を考える
それからどんどん東口が栄えて来ます。しかし東口には、当時は商業施設がありません。住宅ばかりが増えて行きました。他は、小規模の飲食店くらいでした。
通常、都市計画を立ててやるのであれば、生活のインフラは必須です。行政機関もなければいけないといけないし、いろんな商業施設もなきゃいけない。それがほとんど無いのです。なんでこういう街になっていくのだろうな、というのが私、単純な疑問として持っていました。
それでも行政はどんどん工業団地を作っていきますから、人口もどんどん増えていきました。当然、家やマンションもどんどん建っていきました。でも、東口の再開発は一向に進みません。あの当時は大規模商業施設といえば、今はスーパーかましんが入っている、旧イトーヨーカドーが1軒だけでした。それで大きな街が出来上がっていきました。飲食店ではグリル富士さんとか、ステーキ屋さんが2、3軒程度だったと思います。「これは不思議な街だな」と感じたものです。たくさんの人が働いている工業地帯を持ちながら、商業施設も行政施設も、何もない。金融機関もないから、みんなどうやって生活しているのだろうなと考えたことを覚えています。
4 陽東桜が丘の街づくり(1)
宇都宮駅東部にあったシンガー日鋼が経営破綻を起こして、2000年に会社解散となり、7万坪の土地が売りに出ることになりました。私は、これはぜひ買いたいと思いました。
手を挙げたところはたくさんありましたが、最終的に入札に入ったのは、7組くらいだったと思います。私どもは当時鈴木栄一さんが経営していたステーキ宮さんと組みました。
私どもでは、全部買ってしまって全部街にしてもいいと考えていました。そのころでも、ホンダさんの受け皿、清原工業団地の受け皿がなかったんです。だから、あのへんに街を作れば必ず売れると考えました。
ここの開発には、私も本当にいろんな意味で苦労しました。資金繰りももちろんですが、最も悩んだのは最終的にどういう開発をすればいいのかということでした。結論から言うと4万坪を商業地に提供して、3万坪を住宅地の割合で開発し、成功することができました。
まだ買収が成功する前から、私どもが最有力視されていたため、商業施設にキーテナントとしてどこが入るかについても、さまざまな企業から売り込みがありました。フランスに本社があるカルフール、旧ジャスコ、西友、それに当時は宿郷に店舗があったイトーヨーカドーの4社が入りたいという要望で、私どもにいらっしゃいました。当時、私どもの本社は駅東にありましたので、柳田街道を見下ろしながらそういった話し合いをさせていただいたのを、覚えています。
5 陽東桜が丘の街づくり(2)
陽東桜が丘の街づくりの原点は、私たちが栃木会という会を作ったことにあります。メンバーはカルソニックハリソンの元社長で当時清原工業団地の理事長をやっていた新井賢太郎さん、それからホテルサンシャインの上野泰男さん、私、そしてもう一人が松下の新見支店長。この4人で栃木会を起こして、街づくりについて考えました。その時に作った「東口のグランドデザイン」というアイデアを、シンガー日鋼跡地の街づくりで実現させようというのが、私の考えでした。その根底には、子どもの頃に宇都宮市の街中で、上野百貨店や東武百貨店などで経験したことがありました。そういう楽しいものを、街は持たなきゃいかんという想いを持って、あそこを開発することになったのです。
結果的には、陽東桜が丘は戸建347戸、マンション139戸の規模になりました。そこに大型ショッピングセンターとしてのイトーヨーカドー、いまのセブン&アイですね。そのほかに――117店舗くらいかな。ベルモール内にテナントのお店が入っています。その他にシネマコンプレックスやスポーツジム、温浴施設のさくらの湯を作りました。ボウリング場も作る予定でしたが、これはできませんでした。その場所は現在ケーズデンキになっています。
ベルモールができたことで、東口に商業の核ができたと自負しています。その後周辺に大規模商業施設が複数できましたが、それも私どもの開発効果かな、少しは街のお役に立てたかなと感じています。
工業団地をあれだけ作ったことによって、栃木県はGDPの二次産業の占める割合は全国平均より10%くらい高いんですね。でもその反面、三次産業が弱くなった点もあったかもしれない。
どういうことかというと、西口の街の中から商業施設がどんどん消えていきます。昔は十字屋や緑屋、ロフト、福田屋百貨店も上野百貨店もありましたし、西武百貨店宇都宮店もあった、宇都宮PARCOもあったし。数えると10店舗くらいの商業施設が、実は街の中から消えています。昨年(令和元年)にはついに宇都宮PARCOも撤退してしまいました。いま残っているのは、東武宇都宮百貨店、それから少し離れているけど福田屋百貨店(FKD)ですね。
中心市街地から大きなお店がなくなった今、これはなぜなのだろうと考えてしまいます。もちろん、我々の力不足を感じるところもあるのですけれども。
■まちづくりにかける想い
1 栃木会と新交通システム
先ほど言った栃木会は、交通システムの原型を作っています。
栃木会は、宇都宮駅東からP&Gの跡地(※あとで調べる)までいくルートを提案しました。2000年12月に、福田富一・宇都宮市長(当時)や芳賀町の森仁町長(当時)、高根沢町町議だった高橋克法さん(現参議院議員)といった方々に来ていただき、ホテルサンシャインで、栃木会が作った、これからの宇都宮市のグランドデザインについての説明会を開きました。その中には、今のLRTの路線に近いものも入っていました。
まちづくりのグランドデザインを考える時、いろいろな要素を考慮します。例えば少子高齢化はもう絶対始まると考えます。それから地域の環境問題。化石エネルギーは社会問題になるはずだ。国際化、グローバル経済も考慮しなければなりません。外国人労働者もどんどん増えるでしょう。また、女性の社会進出も増えるに違いありません。情報化社会、IT――こういったことは、今私たちがまさに直面している問題ばかりです。これを栃木会では、20年前に議論していたのです。
この提案は、私にとって、子どものころに見ていた夢の街の実現でした。そしてその一部が、ベルモールの中に再現されています。
このころに私は経済同友会の産業基盤整備委員会の委員長になりまして、提言書を出しました。「21世紀に向けての産業基盤整備と再構築」ということで、東口の再開発の提言をしています。その時に、新交通システムのルートを2つにして、8の字状に回そうというアイデアを書いています。
2 住む街に必要なものとは
駅の東口の再開発というのは、私にとっては、自分の人生の最後に自分の目で見ることができる宇都宮市の新しい改革かなと思っています。そういう気持ちで関わっていきたいと願っています。
フランスの作家ジャン・ジオノの『木を植えた男』という本があります。ある男がドングリの木を原野に植えていく物語です。ある若者が彼を見つけて「何をやっているのか」と聞くと「家族もいないし、原野に木を植えています」と答えます。そのあと若者は戦争に行きます。そして何十年かのちに帰ってくると、景色が変わっているんです。男が植えた木から芽が出て成長し、林になっている。通りかかった旅人が、林で憩えるようになる。木が生えてくると水の流れが変わる。水の流れが変わると、そこが休憩所になる。休憩所ができると、そこに市が立つ。市が立つと、人が住む。それがやがて街になるんです。そうなった今も、その男は木を植えている。そんな物語です。私の、宇都宮市でのまちづくりの基本、考え方というのは、こんなところにあるんですよ。
3 LRT実証実験の思い出
宇都宮まちづくり推進機構の事業で記憶に残っているのは、LRTの社会実験です。
2006年11月の4日と5日に「LRTの走る街を体感しよう」ということで、宇都宮市の宮島町交差点から本町交差点まで5、600メートルを封鎖しました。この時の実行委員会の委員長が、私でした。
交通を封鎖といってもバスだけは止めませんでしたが、そのほかは全部、県警にご協力いただいて、全部封鎖しました。本当であれば、センター分離帯も取りたかったのですがね(笑)。そうすれば長さ600メートルの幅30メートル、約1万8000平米の広場ができたわけです。午前10時から午後4時まで、バス以外の一般車の乗り入れを規制したんですね。
このようにして、交通規制をした大通りの路上で祭りを催すことで、公共交通による集客をめざし、LRTに見立てた路面バスを走らせました。この時に百貨店は、当時、売り上げが20%伸びた。通常の休日の約倍以上、2日間で約9万人に及ぶ人出がありました。これは、前年度に実施した宇都宮餃子祭りを約2万人上回りました。
私は、LRTがいいとか悪いという前に、街を作る時にはその街に必要なのは何であるかということを、我々は常に考えていかなきゃならないなと思っています。それを確かめる実験でもあったのです。
■まちづくりのアイデア
1 ウィークエンド・レイク
東口の話ばかりになりましたが、西口についてもいろいろなアイデアを持っていました。その一つに、田川を堰き止めようというものがあります。堰き止めて水嵩を増し、そこに屋形船を浮かべてはどうか、というものです。
JR宇都宮駅、宮の橋の周辺には、以前は屋台がたくさん店を出していました。東北に出張に行った人が、帰りにわざわざ宇都宮駅で降りておでんを食べに来た、という話もあるくらい、賑わっていました。残念ながら衛生上の理由もあって、宮の橋の改修や景観づくりの工事の際に廃止されてしまったのです。それに代わる賑わい創出として出したアイデアでした。
私は勝手に「ウィークエンド・レイク」と名付けていましたが、土曜と日曜だけ田川を堰き止めて池を作り出し、そこに屋形船を浮かべて楽しもうというアイデアでした。で、日曜日の夜12時になったら水門を開けて流してしまえばいいわけです。これは、民間がやったのでは採算に合わないから、行政が一緒にできたらいいなというのを、アイデアとして出したことがあります。
2 ジャズ、音楽を活用した賑わい
ジャズの街宇都宮と言いますが、外から来た人やジャズに馴染みのない人からは「ジャズの音はどこに行ったら聞けるのか分からない」という声が今でも少なくありません。そこで、例えばJR宇都宮駅の発車音を、全部ジャズのメロディにしたらいいんじゃないかと思います。そうすれば、宇都宮駅で下車した途端にジャズが聞こえるわけです。
また、宇都宮市内には大谷石でできた蔵が、まだまだたくさん残っています。それらの石蔵を活用して、ライブハウスをたくさん作ればいいと思います。若い人に演奏させる場所を提供したらどうでしょうか。そして、街中のいろいろなところで、スピーカーから音楽を流せるようにしておけばいいと思います。
ここ数年、二荒山神社のバンバ広場で、バスケットボールの3X3の試合が行われて来ました。あの時、神社への石段がライティングで真っ赤に染まったのを見て、感銘を受けました。以前、まだ上野百貨店があったころ、光のページェントを考えたことがあります。人間は光と水と音で興奮するそうですから、石段に上から水を流し、LEDでライトアップし、さらにレーザーやプロジェクションマッピングで盛り上げてはてはどうかと考えたのです。当時はまだマンションもありませんでしたから。
周辺の方々に了解をいただいて音楽を流したりして、朝までやったら、どうでしょうと。二荒山神社は宮島町交差点と本町交差点のちょうど中間にあるんですよ。だからそこを、土日は一つのお祭りにしたらどうだろうか、と考えました。
3 産業ミュージアム
私は、東口に「産業ミュージアム」を作りたいと、再々言って来ました。「産業ミュージアム」には、例えば(今は撤退してしまいましたが)キリンビールがあった時には、キリンビール工場まで行かなくても、ミュージアムでビールが飲めたり、ビールを作る工程が見られるようにします。栃木県には、優秀な二次産業があります。鹿沼市のナカニシ、宇都宮市のマニー、レオン自動機。これは栃木県の企業ではないけれども、ミツトヨも有名です。ホンダさんは世界を制するF1を作っている。他にスバル、日産自動車。キヤノンなど、世界的なメーカーの工場もあります。そういう企業の製品を陳列して、工場まで行かなくてもそこで見られるようにしたらいいのではないかという構想をもっています。
それで西口にはね、大谷の平和観音を建てたらいいんですよ。実物大は難しくても、2分の1ぐらいのものを。そうすれば、栃木県や宇都宮市に来た人は、ここはどういうところなのか、よく分かるでしょう。
■新しい宇都宮市の姿を求めて
1 大きなグランドデザインの必要性
二次産業には雇用促進効果と納税効果においては、非常に高いものがあります。ですからそれらが栃木県の経済を発展させたことは事実ですし、今でも県民の所得は全国で2位から3位です。
宇都宮市は住みたい都市第1位をずっと守って来ました。一昨年だったか4位に落ちましたが、今度また3位に上がって来ています。
こういう結果を我々の先輩たちが残して来たわけですから、それを踏まえた上で、では次の時代には何が必要かについて、きっちり議論をして、大きなグランドデザインを作って行くことが求められると思います。結果的にその通りに行くのかどうかというよりも、まずそういうことを考えて行く気持ちを持つことが必要でしょう。
これからは人口減少がさらに激しくなります。だからこれからは、人を育てるということがすごく大事ですが、栃木県にはまあ県立の大学もない――農業大学校はありますが。この状況も変えていかなくてはいけないと思います。
2 歴史と光のフュージョンプロジェクト
以前「歴史と光のフュージョンプロジェクト」というのを立ち上げたんですよ。商工会議所や推進機構、宇都宮コンベンション協会などのリーダー、代表を集めて。イルミネーションで歴史を描こうというプロジェクトでした。
以前、横浜の中田宏市長(当時)が宇都宮市に来られた時に「横浜の歴史はペリーが来て日本が開国してからの、わずか百数十年くらいでしかない。ところが宇都宮二荒山神社は1300年以上の歴史を持っている。これはどんなにがんばっても、横浜が叶わないことです」という意味のことをおっしゃっていました。同感です。
近年、全国で「昔の地名が消えてしまった」という声を聞きます。その中で宇都宮市は住所では地名が変わりましたが、同時に銘板(表示板)のようにして旧地名もわかるようにしています。ですから、歴史を学ぶ素地はあるのです。ただ残念ながら、中心商店街も、市民の方も、なかなか一つになれないのが現状です。
だから今のところ、イルミネーションは、宇都宮まちづくり推進機構と私のところで連携してやっています。他にもみはし通りとか、二荒山神社とか、イルミネーションいろいろあるんですよね。ですから、期間と時刻くらいは一緒にやろうということになっていますけれども、これがもっともっと大きくなれば、仙台の光のページェントに負けないくらいのものになるポテンシャルを、宇都宮市は持っていると思います。
3 宇都宮花火の復活
宇都宮花火は、今年(令和2年)は残念ながら中止になってしまいましたが、あれがスタートする時に、若い人たちから「花火大会を復活させたいんだ」という相談をされました。詳しく話を聞いてみると、具体的にどんな準備をすればいいかが分かっていなかったので、そこを私がお手伝いさせていただきました。「警察に行ってください」「行政と相談しなさい」「警備会社を雇いなさい」など、そういうことをゼロから教えてあげて、一つ一つ積み上げていきました。すでにポスターも作ってあったのですが「現状では実行は不可能ですよ」とストップをかけたりもしました。また、当初は会場にグリーンスタジアムを予定していましたが、それはまず許可がおりませんから、柳田緑地に変えてもらいました。そうやっていろいろお手伝いしたので、今でも花火大会の時にあいさつをさせてもらっています。
4 企業活動で重要なのは付加価値を提供すること
歴史は本当にものすごいスピードで動いていますからね。私は来月で72歳になります。宇都宮市でこの会社をスタートして、45年。昭和50年だから1975年。まだこれからも、宇都宮の街を少しでもよくなることができれば、力になります。
瑞穂野に、われわれが開発した街があります。9万坪、588世帯分です。
その際に、3つの「共生」をコンセプトに掲げました。自然との共生、ジェネレーションの共生、それから地域との共生です。
当時はそこもグリーンヒル同様、すごい雑木林でした。それを全部伐採して、街を作っていきました。雑木林だった当時は、女性一人では歩けない。子どもたちも、学校が近くにあるのに、反対側の大きい通りで学校に行かないといけないような場所でした。そこで、木を伐採したあとに作った街には防犯灯を立てて、小学校まで通学できるよう200メートルの道路を作りました。自然を破壊するのではなくて、自然を永続的に持続させるために、人の力が必要なのです。なんでもかんでも壊してしまえばいいということではないのです。開発することによって、緑も守られるし、周辺の住環境も向上することもあるのです。
もちろん我々も企業ですから、収益を上げられるように努力します。でも、企業活動で一番大事なのは、ただ収益を上げるだけじゃなくて、社会に付加価値を提供することなのです。それぞれの企業がそれぞれのやり方で、さまざまな付加価値を提供することが重要だと考えています。
5 宇都宮PARCO跡地利用と中心市街地再開発
(当日はインターネットを使って委員会メンバー向けに中継を行っていた。参加者の一人である陣内先生から質問が出て、それが田辺事務局長から伝えられた)
田辺 陣内先生から、宇都宮PARCOの建物の利用について、何かアイデアがありますかと質問をいただきました。
中津 私は、たくさんあると思います。
いま、中心市街地から商業施設がどんどん減っています。それに伴い、スーパーブランドを売っている店も少なくなりました。有名なルイ・ヴィトンを取り扱っているのは、宇都宮市内では東武宇都宮百貨店だけだそうです。そのため県外から移住された方々から「栃木県ではブランド品があまり買えない」という声を聞くことがあります。
JR宇都宮駅に入っている成城石井では、あまり国内のスーパーでは売っていないようなものを売っています。それと同様に、高級品やブランド品など他では扱えないような商品を販売する商業施設が、中心部に欲しいなと思っています。普通のスーパーで普通に買えるものではないものを、街の中で買えたら面白いなあと思うんです。
と同時に、生活インフラ関連商品の店も少ないですね。そのように、さまざまな角度で消費者のニーズに応える商業施設が、宇都宮市中心部には必要でしょう。
宇都宮PARCO跡地は、本来であればどこかが一括で賃貸してくれるのが、一番いいと思います。ただ、現状でそれが難しいのであれば、借りたいというお店をどんどん入れていったらどうかな、という気はしています。1階にスーパーブラントが入らなくてもいいと思うんですよ。それよりも、宇都宮ならではのお店が入ってくれればいいと思います。
建物というのは「器」なんです。大切なのは、その器をどう使うかですよね。だって、器で価値のあるものなんてね――茶器とか、そういうものは別ですよ。それ以外では、器というのは何の意味もなさない。中に魂を入れなきゃならない。宇都宮PARCO跡地という器に、宇都宮にとって必要なものを入れることができればなと、私は思っています。
上野百貨店が閉店する前のことですが、当時の社長さんに「上から下まで全部音楽のビルにしてはどうですか」と申し上げたことがあります。銀座の山野楽器みたいなビルにしてはどうか、ということです。中にはライブハウスもあるし、日本中で出ているCDやレコードも買える。楽譜も買える。もちろん楽器買える。こんなビルが一つあれば、街の風景が変わるんじゃないかなという気が、今でもしてならないのですよ。
6 これからの宇都宮市中心部のありかた
山田 私が宇都宮に来たころと比べて、現在の宇都宮市は東西だけでなく南北にも広がりを見せていると思います。中津会長は、これからの宇都宮市の街の中心部に、どんなふうなことを思い描かれますか。
中津 私は「JRの駅を数キロ北に移動できないか」と言ったことがあるんですよ。そうすると東西に長い駅になるのですが、エレベーターや動く歩道を設置して、新幹線と在来線を結節し、現在の駅は在来線だけにしてしまえば、その上か下を通って、東西の道路が抜けるんじゃないかと、そんなことを考えたことがありました。
宇都宮市には、まず三次産業がありますよね。それから各大手金融機関の支店が乱立して立っていると。それから行政も、県庁と市役所がある。要するに機能的なものはたくさんあって、もう十分だと思うくらいあるんですよ。ただ、文化的なものが、あまりないと思っています。
私は、これからの時代は人の育成だと思っています。須賀先生が宇都宮市の中心部に宇都宮共和大を作ってくださったんですけれども、私はその他に、県立大学を作ることが求められると思います。例えば福島県の会津大学や秋田県の国際教養大学、高知県の高知工科大など、近年に新しく設立されている公立大学は、いずれも教育の中心を海外から招聘した教授陣に働いてもらい、先端的な科学技術の分野で日本の良さと海外の良さを融合させた取り組みをしています。栃木県にも、そういう教育拠点を作ってはどうでしょうか。そんな拠点ができれば、周辺にベンチャー企業も集まります。さらにその周りに、ベンチャーから育った企業が集積するでしょう。そして、それを支えていくための社会インフラもできていくと思います。その時、バランスよく育って行くことが大切だと考えています。
そこで必要なのが、市街化調整区域の見直しです。宇都宮市の中心市街地は本当に狭くて、私どものすまいるプラザ(※宇都宮市竹林町にある、トヨタウッドユーホームのショールーム)より北側は、いまだに全部調整区域です。駅からわずか数キロのところに、あんな大きい調整区域があるというのは、私はちょっと信じられないです。
宇都宮市をぐるりと取り囲む「宇都宮環状線(宮環)」は、東京の山手線とちょうど同じくらいありますが、その中にも調整区域がたくさん入っています。だから、何も中心市街地にすべてのものを集約しなくても、調整区域を外して、公共交通が整備されれば、宇都宮市はさらに発展するのではないでしょうか。
その上で、そういう時代に中心部に必要なものを考えてみると、これからの時代に重要なのは「ジェネレーションの融合」だと思います。高齢者施設と子どもたちの教育施設を融合した街というものが、あってもいいと考えています。
私は、街のサイズを決める必要はないと思います。平城京とか平安京というのは公家が作った街だから、公家の人数に合わせてサイズが決まり、碁盤の目のように道路が作られました。でも家康の作った江戸の町は、水(川、水路)をうまく利用して、渦巻きのように外側に広がって行くまちづくりをしていました。だから、どんどん今でも発展しているわけですよ。宇都宮市も、そういうふうに考えるといいと思います。
その中で二荒山神社は、象徴的なものとしてしっかり守ってほしい。そこを中心に、生活を楽しむような中心街であっていいのかなと私は思っています。
7 宇都宮の新たなシンボル
山田 今日のお話の中に軍都としての桜がありましたけれども、じゃあ新しい街としてのシンボルツリー、大銀杏以外のシンボルツリーがあってもいいかも知れません。
中津 さっきも言いましたが、大谷の平和観音を作ればいいんじゃないかなと思うのですよ。
大谷石は、フランク・ロイド・ライトがとても高く評価して、世界中に知られている石材です。だから、それをもっと誇りにすれば良いと思います。例えば歴史軸(※宇都宮二荒山神社と宇都宮城址公園を結ぶ道路)の道路は大谷石で舗装するというのはどうでしょうか。だって、時の城主はあの道を通って、毎日神社まで行ったわけですから。
明石志賀之助にちなんで、大きい相撲取りの像でもいいでしょうね。那珂川町(馬頭)に広重美術館がありますから、宇都宮駅に広重の浮世絵を描いてもいいと思います。
やっぱりそこに行ったらその街とか地域のものを、自慢しなきゃダメだと思うのです。そこが日本は下手ですね。どこに行っても下手なんだな。
もう一つ言い忘れていましたけれども、陽東桜が丘の街づくりをやった時、あそこの東側にある道路は、実は東山道なんですよ。だから、もうちょっと東山道がこっちに寄っていたら、われわれ事業が止まっちゃったんです。
東山道というのは、那須あたりまでしか行っていないのです。だから何のための道路かと言えば、大和朝廷の租庸調(税)のための経済道路、税収を集めるための道路であり、なおかつ蝦夷に向かっての軍道なんですよ。それが那須までしか行っていないということは、宇都宮市は最前線基地ですよ。その証拠に、東谷・中島地区とか、あの辺を開発するたびに、重層遺跡(同一範囲内の地中に時代や種別の異なる複数の遺跡が層位を異にして重層的に存在している遺跡)とぶつかります。そういう意味では、宇都宮市はさまざま文化が融合しているところだと思うんです。
「みずほの緑の郷」や、子ども科学博物館の前の「みやのもり」では、開発に伴って石室とかそういうのがどんどん出ました。直刀や家の埴輪なども出て来たのです。でも栃木県には、それらを陳列する場所がありません。だから全部、我々受益者負担で発掘して、われわれが引き取ることになります。あれはもったいないなと思います。
そういうふうに、人間が住んでいるところには必ず史跡が残っています。必要な文化財は、これからもきちんと残していくことも大切ではないでしょうか。
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